創業したばかりのソフトバンクはこれから何をやるのかさえはっきり決まっていませんでした。木造でトタン屋根の事務所の2階に居を構えていましたが、まったく売上がありません。絶対日本一になるという強い思いで20ほどの事業アイデアを思いつき、実現性について調べることにします。手が足りないので、社員をひとり、アルバイトをひとり雇いました。もっとも有望な事業に一生を捧げる覚悟でした。
そして、『ミカン箱の演説』をおこないます。
ミカン箱をひっくり返して、その上に乗った孫は、「売上高、5年で100億、10年で500億」、「いずれ売上高は豆腐のように1丁(兆)、2丁(兆)と数えるようにしたい」とぶち上げました。しかも連日繰り返します。
社員もアルバイトも、この人にはついていけないと見切りを付け辞めていきました。
孫正義は24歳でした。
この逸話は、孫正義の評伝として書籍化されていますが、ソフトバンクの組織文化にとてつもない大きな影響を与えています。
私は、2016-7年頃、ソフトバンクの人と一緒に仕事をしたことがあります。雑談の途中でミカン箱の演説を話題に挙げたところ、「ミカン箱って普通段ボールじゃないですか?だからあれはミカン箱じゃなくて、もっと重いモノが入った木箱じゃないかって、社内で話しているんですが、結論は出ていません」と話してくれました。会社の理念をホームページに掲載していても社員は読まないし憶えていない。これは普通に起こることです。ソフトバンクでは、孫正義が若い頃のストーリーが、口コミで社内に伝わり、組織文化を創るために重要な役割を果たしています。つまり、「限りなき成長への欲求」といって差し支えないでしょう。
このストーリーによって形づくられた組織文化は、その後のソフトバンクにどんな影響を及ぼしているでしょうか?成功への欲求が強い、ちょっと山っ気のある従業員が集まります。モノになるかどうかわからなくても賭けてみるマインドで事業が展開されます。
2000年頃の話です。ベンチャ投資ファンドの人と話したことがあります。そこは、投資先のビジネスや経営者をしっかり見極めてから投資し、投資後も成長のために手厚く支援をする方針でした。投資ファンドの助言といえば聞こえがいいのですが、もとの経営者にとっては介入とも取れるほど細かく、支援といっても実行するのはもとの経営者側なので、ついに根を上げて投資を引き上げることさえあったと聞いています。
それに比べるとソフトバンクは、一度のプレゼンで投資の是非を決める即断即決が売りで、その手法に自信をもっていました。私は、それはないんじゃないかと思っていましたが、ネットバブルの危機を乗り越え、1兆(丁)、2兆(丁)と事業を数終える成長を果たしています。孫正義の手法に共感する優秀な人材が集まったことが大きな要因でしょう。
これだけだと、イケイケの経営者と見られても仕方ないのですが、孫の場合は、人々が共感する苦労を乗り越えています。
ひとつは差別です。孫正義は、韓国出身の父親と、日本人の母親との間に生まれており、韓国籍でした。韓国籍であっても日本風の姓を名乗ることも一般的でしたが、明らかに韓国系とわかる孫の姓で通します。今よりも差別があからさまで陰湿であったときのことで、孫自身「差別は本当に辛かった」と語っています。台湾出身の王貞治が最初の国民栄誉賞を受賞しているように、成功すれば日本人として迎え入れる一方で、何者ともわからない段階では平気で辛く当たるのが、残念ながら日本人の国民性なのかもしれません。
もうひとつは病気です。ソフトバンクの経営が軌道に乗り始めたころ、身体のだるさを感じて検査を受けたところ、慢性肝炎と診断され、医師から緊急入院を勧められます。どのくらいで治るか尋ねると、「完全な治療法はわかっておらず、いつ治るとは言えない。5年以内に肝硬変になる可能性が高い」と言われてしまいます。社内外に病気を伏せています。明らかになれば銀行からの融資がストップされる状況でした。孫は、病室でひとり泣きながら「自分は何のために仕事をしているのか?」と自問し、「人のために喜んでもらえる仕事がしたい」と思い至ります。父親が新聞で画期的な治療法を見つけ、藁にもすがる思いで病院を訪ね、3年半におよぶ闘病生活を経てついに病気を克服します。
ふたつの経験が、孫正義という経営者に人間的な厚みを与え、心から「この人についていこう」と思う人材を引き寄せたと考えられないでしょうか?これらのエピソードは書籍に記載されており、組織文化の形成に寄与しています。
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